鉄人28号

2005年/日本

 昔、雑誌かムック本か忘れたが、鉄人とアトムに関するこんな一文を目にした。
 「もし今後新しくアトムが制作される機会があるとしたら、それはやはりアニメであるべきだ。アトムを表現する方法はやはりアニメーションをおいて他にはない。だがもし鉄人が新しく制作されるならば、是非実写で見てみたい。最新の映像技術を駆使して暴れ回る鉄人を。」
 うろ覚えだが、たしかこんな感じだった。
 私はこの文章に大いに同意した。
 実写版「鉄人28号」! なんと素晴らしい響きではないか。まあ大昔ドえらいシロモノがあったわけなんだが(1960年に制作されたTVシリーズでノッポさんの1.5倍ぐらいの大きさの鉄人がボックリボックリ動いたりする)、現代の特撮技術を以てすればカッコイイ映像が作れるんじゃないか?
 ミニチュアセットに精巧に再現された昭和中期の東京を跋扈する怪ロボット、地響き(勿論カメラを振動させてフォローだ)と共に現れる黒い影、アオリのキャメラアングルで見上げる鉄人が咆哮を上げる。鉄人のパンチに吹っ飛ばされた敵ロボットがビル街を崩しながら倒れ込み、その足元へキャメラが動くと(黒味繋ぎね)土煙の中を怪ロボットを操る悪の組織の連中が右往左往する。
 何とも血湧き肉躍る情景ではないか。何時かそんな映画が観たい。そう思ったものだ。

 あれから何年経ったか・・・・・・・。
 その”もの”は遂に私の前に姿を現した。
 最新技術(CG)を駆使した実写版として。

 以下は映画オタクというよりは、鉄人28号オタクとしての弁だ。

 鉄人28号という物語を展開させ、その魅力を語る上で絶対外すことの出来ないものは何だろう?
 ”鉄人28号”? まあそれは勿論だ。
 だが、何よりも忘れてはいけないのは、この物語が”少年探偵金田正太郎の活躍を描く”というものである事だ。
 横山先生は当初、鉄人を中篇程度で完結させるつもりだったという。そこでの鉄人は最期まで”敵”として描かれるはずだった。
 あらゆる攻撃を受け付けない鉄人。人々が万策尽き果てる中、正太郎の機転で鉄人を溶鉱炉へ落とす。そんな結末だったらしい。
 つまり「鉄人28号」という物語の主人公はあくまでも”少年探偵・金田正太郎”なのである。
 ただの少年ではなく、少年探偵。これが非常に重要だ。子供ながらに車に乗り銃さえ扱い、大人顔負けの知能と大胆な行動力で悪と戦う。
 その、言ってしまえば荒唐無稽なキャラ造形が金田正太郎の骨格なのだ。
 ここで言う荒唐無稽は決して悪い意味ではない。古き良き時代、などという手垢の付いた惹句を持ち出すまでもなく、かつての”冒険活劇”の主人公たちは皆こうした破天荒なヴァイタリティとスキルを持つ”超人”だったのである。
 そして物語にはその超人たちが存在する、存在できる土台があった。言うまでもなくそこにはそれらの物語が紡がれた当時の、現実世界の猥雑な、しかしそれでいて逞しい力が影響を与えているのだ。
 金田正太郎という”少年探偵”が縦横無尽に活躍できる世界、それは例え架空であったとしても”戦後”という言葉で乱暴に括られる事の多い昭和中期であろうと私は考える。逆に言えばそうした時代でなければ”少年探偵”なる職業は絶対に成立し得ない。
 そしてこの”少年探偵・金田正太郎”の存在こそ「鉄人28号」にとって絶対に外せない要素、巨大な柱なのである。
 今作は舞台を現代に移している。
 勿論そこには制作の都合が存在するだろう。昭和中期を舞台にしてしまうとあらゆる場面を(それが造形物にろCGにしろ)飾り込まなければならなくなる。
 また舞台を現代に移す事により観客、特に若齢層のそれがより共感を得やすくなるという事もあるだろう。
 だが、現代劇というものは根源的にある程度のリアリティが要求される。我々が現実に目にしている世界との共通項が多いからだ。
 そして現代という舞台には”少年探偵”なぞ存在し得ない。例え架空の世界であったとしても。
 この映画に登場するのは”少年・金田正太郎”である。ただの少年だ。この違いは果てしなく大きい。
 この点が、今作のまず最初の問題点だと言えるだろう。

 次に鉄人を見てみよう。
 デザインは概ね原作のラインを踏襲している。細かいディティールの追加・変更はあるものの、シルエットに変化は無い。
 だが、大きく異なる点がある。
 目がない。黒目が無いのだ。
 既に鉄人には映像化作品が複数存在するが、その中には黒目の無いものもある。
 最初の実写版、「太陽の使者 鉄人28号」、「鉄人28号FX」、以上の3つがそうだ。
 この3つに登場する鉄人には一つの共通項が存在する。
 それはデザインが原作と大きく異なる、という事である。
 その是非については重要ではないのでここでは論じない。要するに言いたいのは今作は初めて原作に近いラインで黒目の無い鉄人になった、という事である。
 これが違和感を感じさせるのだ。ひいては鉄人のある大事な要素の剥落にも繋がっている。
 鉄人は、単なるロボットではない。
 横山先生は鉄人をデザインする時に西洋甲冑とフランケンシュタインの怪物に着想を得たと言われている。
 事実、原作の鉄人初登場シーンは両手を水平に広げた状態で固定され、体には無数の電線が繋がれていた。その姿は確かに誕生直前のフランケンシュタインの怪物を連想させる。
 悪漢の手に操られ、咆哮を上げて突進し、あらゆる攻撃を退けて破壊の限りを尽くす。そして(上にも挙げた通り幻となったが)溶鉱炉に没し去るという最期を迎える。
 そう、鉄人とはその原初が、そして窮極的にも”怪物”なのである。
 怪物という鉄人の実相は正太郎によって操られるようになってからも少しも変化していない。
 リモコンを使うことによっていかな命令も下す事が出来る便利な道具。しかしその便利さは常に危険と隣り合わせである。かの有名なOPの歌詞に歌われるように「良いも悪いもリモコン次第」なのだ。リモコンが一度悪の手に渡れば、すぐさま鉄人はその手先となって暴れ回るのだ。
 つまり鉄人とはリモコンによって操縦される頼もしいロボットではなく、リモコンで手懐けられている怪物なのだ。
 怪物だからこそ咆哮を上げ、黒目を向けて「ギロリ」と睨みを利かせるのだ。そこに鉄人に機械以上の”意思”を感じ、怪物を見出すのだ。
 そう、上に挙げた剥落した大事な要素とは、この鉄人の”怪物性”である。
 今作に出てくる鉄人には怪物としての異様さが全く無いのだ。
 正太郎が鉄人を操る時、彼は怪物を手懐けている、はずなのだ。しかし今作の正太郎は、単にロボットを操っているに過ぎない。
 当然だろう。彼は”少年探偵”ではない。あの混沌とした、そして力強い横山世界の住人ではないのだ。
 怪物性もまた「鉄人28号」の大事な柱なのである。
 
 二本の柱を失ったこの作品を、それでも「鉄人28号」と呼べるだろうか?

 さて、少しは映画としてどうかという事も一寸は触れておきたい。
 まず第一に無駄な登場人物が多い。というか無駄に使われている登場人物が多い。
 まず天才少女という設定の立花真美が要らない。このポジションは本来敷島博士が占めるべきものだろう。
 阿部寛を回想シーンだけに使うなんて事をせず、敷島博士として充てれば事は足りたと思う。あるいは中村嘉葎雄氏をそのまま敷島博士にしてしまっても良かっただろう(年齢的には一寸上過ぎるかもしれないが)。しかもこの要らないと思われる天才美少女(この表現自体も頂けないが)さんが「天才中の天才科学者」なんてマヌケな台詞を臆面もなく喋っちゃうもんだから、見ているこっちが恥ずかしくなる。
 江島・村雨の刑事コンビも必要ない。大塚所長と警官隊が占めるべきポジションである。また村雨の改悪ぶりも非常に腹立たしい。どうせならもう少し格好の良い役どころに据えて欲しかった。
 次に敵側の行動が意味不明な上にマヌケというのが問題だ。
 宅見零児は自らの理想郷の建設を目論む狂気の天才だそうだが、そのワリにはやってる事が少しも賢くない。
 その手になる怪ロボット・ブラックオックスは腕を切り離して飛ばす事が出来るのだが、鉄人との対決では一切使用せず内蔵のスピーカーでメッセージを流すぐらいだ。
 更にその体内には核爆弾を内蔵しているそうなのだが、それで何をするつもりだったのだろう? 核がついてるぞと脅す気配も無く(秘書がバラしてたけど)、さりとて攻撃の手段に使うでもない。第一ブラックオックスで現行文明を一掃した後理想郷を作るみたいな事を言ってたが、それならのんきに鉄人と殴り合いなどしてないでさっさと核を使用すればいいのである。
 またブラックオックスには宅見の死んだ息子の人格が移植されているそうだが、別にそれが物語に何らの影響を与える事もない。秘書は「宅実はオックスから離れられない」なんて言ってたが、息子の人格を移植したロボットに核を載せちゃうってのは、やっぱり意味不明だろう。
 また宅見はヘリで現場にやってくる。確かにそれだと所在は掴みにくいだろうけど、あの厳戒下にヘリを飛ばせばその場で怪しまれるに決まってる。第一陽動に出たはずの秘書がヘリを見た途端に「零児・・・・」とか言っちゃったらバレバレじゃないか。第一この秘書、折角車があるのに下りて警察と銃撃戦を始める始末。それじゃ陽動にならないだろ? 車があるならそれで逃げて現場から警察を引き離せよって。
 とこんな感じでこの映画”穴”だらけなのだ。ツッコみ出せばキリが無い程に。
 また最終決戦が突然埠頭の倉庫街で行われるのも納得がいかない。
 宅見の目的からすれば都心部で暴れるべきじゃないか? それに建物なんかの破壊描写が全く無いので迫力に欠け、何とも寂しい最終決戦になってしまっているのだ。
 監督曰く「小学生・中学生に向けて作った」そうだからファンタジーとしてはこれで良いのか?
 確かにそうかもしれない。
 だが、皆が見に来てるのは「鉄人28号」のはずだ。
 「そんな細かい事良いじゃないか」という人もいる。あるいは「鉄人だと思わなきゃ結構良いんじゃないか?」とも。
 だがどうだろう。定食屋に入ってカツ丼を頼んだら天丼が出てきた。文句を言ったら「いや、天丼として食べれば美味しいから」と言われて納得できるだろうか?
 改変が全く悪いことだとは言わない。現代風のアレンジも上手くすれば良い結果を上げるし時には重要ですらある。
 だが、ある名を冠するには最低限度守らなければならないものがあるのではないだろうか?

 私にとってこの映画は「鉄人28号」としては最低のシロモノだった(FXよりマシかもしれないが)。
 そして映画としてもそれほど楽しいとはいえない。
 そんな感じだ。
 実は映画を見て直ぐにこの文章を書き始めたのだが、読み返してみるとただの罵詈雑言だった。で書き直したりしてる内にこうなったのだ。中身が支離滅裂なのはいつもの事だが、とりわけ今回メチャクチャなのはそういう事に起因してたりする。
 好きなものが酷い作品になって出てくるっていうのは、やはり辛いものだ。

 あ、因みにたった一つの救いとしてパンフレットがあります。あれは力作ですよ〜。

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