彼は、この海岸が好きだった。
勿論他にも療養所を出て散歩に行ける所はある。だが一番好きなのはこの海岸だった。
日の光を浴びてキラキラと輝く水面を見たり柔らかい砂浜を踏みしめる感触も勿論だが、曇天の下で激しいうねりを見せる波を見るのも彼は好きだった。
だから、大抵の場合彼はここにいた。
何処にどんな岩場があるか。
どんな生き物が住んでいるか。
何時頃、海はどうなっているか。
話を聞く人が皆一様に驚く程、彼はこの場所に詳しかった。
彼自身その事に満足していた。
何故ならここは彼が心を病んで療養所に来てから、殆ど唯一心が休まる場所だからだ。
何よりもここに居れば五月蝿い看護婦や、妙に馴れ馴れしい医者に煩わされる事もない。彼らは好意を持ってくれているのは分かるが、殆どの場合それが疎ましかった。
それでも彼が大人しく人々の指示に従っているのは、偏に海岸へ来るための外出許可を取り消されないようにするという、ただその一点のためだった。
海岸でおかしなものを拾ったのは、ある天気のいい朝の事だった。
いつものように波打ち際を歩いていて見つけたのだ。
それは一見するとバイクのヘルメットのような感じだが、しかしそれにしても奇妙なものだった。
色は濃い青をしておりプラスチックのようなもので出来ているらしく、叩くと合成樹脂特有の乾いた音がした。
全体に大小様々な傷が、無数についている。
しかし一番奇妙なのは恐らくこのヘルメットを被ると、眼が隠れてしまうという事だろう。
深さから考えても耳や鼻梁の辺りまではすっぽりと隠れてしまう。
そして、眼に当たる部分には赤い半球状のレンズのようなものがついていた。
額に当たる部分からはアンテナのような物が出ている、らしい。らしいというのはそれらが折れてしまっているからだ。
彼はヘルメットを裏返し、中を覗き込んだ。
耳に当たる部分にはスピーカーの様に細かい穴が幾つも開いていた。
また赤いレンズの裏側にあたる部分には薄い硝子のような物がはめ込まれている。
「ひょっとしたら、パイロットのヘルメットかもしれないな」
前日、散歩中に空で何かが激しく光るのを見た。恐らくは何かの爆発だろう。
ニュースなどは何も流れなかったが飛行機の爆発事故ではないか、そう考えていたのである。
ヘルメットを小脇に抱えると、道路の方へ向かって歩き始めた。
海岸への入口に水道があるからだ。
蛇口をひねり、流水をヘルメットの内側に流し込むと、彼はおもむろに手を入れてかき回した。
何の準備もしていないから、手で洗うしかないのだ。
何度か中を濯いだ後、外側を水にさらすと、手のひらで大雑把に擦った。ただそれだけでも表面の汚れや滑りが落ちるのが分かる。元々、そういったものが付きにくい素材なのだろう。
一通り洗い終わると、大きく振って水を切り、道路脇のブロック塀の上に置く。
この天気なら直ぐに乾くだろう。
彼はそう考えると散歩を続ける為に、砂浜へと戻っていった。
散歩を終えての道路脇の異様な塊を眼に止めて、彼はようやく自分が置いたヘルメットの事を思い出した。
散歩の最中に見つけた蟹の子供に夢中で、すっかり忘れていたのだ。
手に採ってみると、ヘルメットはすっかり乾いている。
傷こそ在るが艶やかな表面を指で撫でている内に、彼の中にある“衝動”が生まれた。
“被ってみたい”
最初、直ぐにそれは打ち消された。
そんなわけない。
何処の誰が被っていたのかも分からない、しかもこんな奇妙なヘルメット、何で被ってみたいもんか。
理性が下す判断が、衝動を打ち消した。
しかし、暫くするとまた同じ衝動が湧き起こる。
それも前より強く。
“被ってみたい!”
その度に理性は抵抗し、否定を試みる。
が、衝動はまるで波が打ち寄せるように何度も訪れ、その度に彼を激しく苛んだ。
“被れ!被らなければならない!”
無数の逡巡の後、感情の荒波の前に、ついに理性の堤防は崩れさった。
彼は改めてヘルメットを両手で頭上へと差し上げると、一瞬間を置いて一気にそれを自分の頭に被せた。
「ぎゃああああ!!」
その途端、絶叫と共に彼はのたうち回った。
”何かが、入ってくる!”
まるで無数の針を打ち込まれるような、激しい痛みとともに、何かが彼の頭の中に入り込んで来る。
爪を立て、必死になって頭をかきむしったが、ヘルメットの表面を空しく滑るばかりだった。
痛みが頭を満たすと、今度はビリビリと音が聞こえてさえ来そうな程の衝撃が脊髄から全身へと染み渡る様に広がる。
燎原の炎の如く、苦痛がその細胞の全てを焼き付くそうとしていた。
“死ぬ?!”
彼は、意識を失おうとしていた。
まるで、闇の中に吸い込まれるように。
何がどうなったのか、気が付くと彼は見知らぬ場所に立っていた。
目の前には何人もの男たちが、険しい形相でこちらをにらみつけている。
「何とか言えよ!」
「おかしな格好しやがって!何だそれはよ!!」
「バカじゃねえのか?!」
口々に罵声を浴びせてくる。
しかし彼はそれには応じなかった。変わりに口の端を歪めて、笑いを浮かべる。
陰惨な笑いであるのは、自分でも良く分かった。
だが、笑わずにはいられなかった。何故か目の前の連中が酷く陳腐で哀れなものに思えたからだ。
「ふざけやがって!ブッ殺してやる!!」
叫び声とともに、男の一人が飛びかかって来た。手には木刀を持っている。
”避けなきゃ!”
当然彼は思ったが、それは別の何かにすぐさま押さえ込まれた。
“必要無い”
次の瞬間、木刀が左肩を打った。ゴッという鈍い音が響く。
だが、不思議と痛みは感じなかった。
いや、感じないなどというものではない。
何とも、ないのだ。
相手の男は明らかに動揺している。
彼は右手を動かして木刀を掴むと、軽く力を込めた。
音を立てて、木刀が砕け散る。自分でも信じられない力を発揮していた。
木刀を捨て、後ずさる男。
回りの連中も一様に言葉を失っている。
彼は男達へ一歩踏み出した。頭の中で“声”が囁く。
“分かっているな”
軽く頷いて、歩く。
“何をすれば良いのか”
恐怖に駆られた一人が、ナイフを手に切りつけてきた。
彼は最小限度の動きでそれをかわした。
見える。
動きが見える。
まるでスローモーションだ。
男のナイフを身を翻してかわししつつ一歩踏み込むと、体の捻りを利用して二の腕を相手の後頭部に叩き込んだ。
枯れ枝を折るような軽い衝撃を感じながら、今度は捻りで生まれた反動を利用して反対の拳を男の腹に打ち込む。
拳は紙を破るように男の腹を貫き、吹き出すなま暖かい血が彼の体を濡らした。
拳を引き抜くと、男はそのまま地面に倒れ込んだ。
断末魔さえ残さぬ、それは最後だった。
“ようし、それでいい。”
声が、再び聞こえた。彼の中にいる何かが、発する声が。それは先ほどよりも確かで、どこか楽しむような響きがあった。
死者には一瞥もくれず、彼は他の連中を見やる。
皆まるで金縛りにでもあったように硬直していた。
「出来る。簡単だ。」
昂揚が、彼の心を支配した。生まれて初めて感じる悦びだった。
「あはははは!」
妙にあか抜けた笑い声と共に、彼は残る男達の所へと突進していった。
その後の事は良く覚えていない。
気が付くと、彼は自分の部屋にいた。傍らでは担当医が心配そうに覗き込んでいる。
色々と詰問されたが、彼には何も答えられなかった。
殆ど覚えていなかったし、覚えている事も、とても口に出来る事ではなかった。
結局彼は“疲労で倒れた”という事になった。
「恐らく意識が朦朧としていたんだろう。残念だけど、暫く散歩は禁止だよ。」
優しくそういう医師に、彼は黙って従わざるを得なかった。
「夢、だったのかな・・・。」
一人になってから彼は自分の身に起こった事を思い返した。
あまりに現実感が無く、まるで映画かTVドラマを見ているようだった。
拳に残る、異様な感触を除いては。
夢では無い事を知ったのは、食堂で見たニュースでだった。
地元で問題になっていた不良グループが、溜まり場にしていた公園で殺されたというのだ。
犠牲者の数は12人。警察は対立グループとの抗争が在ったのではないかと疑っているようだった。
「ふん、死んで清々するよ、あんな連中。」
ニュースを見ていた中年の男が吐き捨てるように言った。
「どいつもこいつもクズばかりだったからな。」
声に出しこそしないものの、ニュースを見ている人は同じ様な考えらしかった。頷いている者もいる。
記憶が、感触が、彼の中に蘇った。
「そうか、そうなのか。」
彼はその時、ようやくあの時感じた昂揚の正体を知った。
「あれは、正義の悦びだ。」
悪人を倒した悦びなんだ。
食事もそこそこに自室に戻ると、キャビネットを開いた。
そこにはあのヘルメットがあった。赤い眼が、彼を見ている。
ゆっくりと取り出し、徐に被ってみる。
もう、痛みは無い。
彼は鏡を見た。
全てが、理解出来た。
これはヘルメットじゃない。
仮面だ。
正義を行うものの“証”。
裁きを下すものの“顔”。
悪が畏れるべき“紋章”。
鏡の中にいたのは彼ではない。
正義を行う戦士だった。
その日から彼の、悪との壮絶な戦いが始まった。
だが迷うことは何も無い。
仮面から聞こえる“声”が導いてくれた。
新聞は連日彼の“活躍”を書き立てている。
ある者は彼を“正義の味方”と呼び、またある者は彼を“狂った殺人鬼”と呼んだ。
しかし、何と呼ばれようと構わなかった。
その行いを人が何と呼ぼうと別に構わなかった。
また同時に“声”は彼に新しい技術と情報を教えた。脚となるバイクの改造。身を守る防護服の製作。夜、施設が寝静まった後、彼は部屋を抜け出し、夜の街へ向かう。
自らを強化し、次々と敵を、悪を見つけ、戦いを挑み、そして勝利していった。
しかし戦いに感じる興奮も回を重ねる毎に薄れ、やがては感じなくなる。そして苦悩するのだ。
自分は何をしているのだろう、と。
彼には分からなかった。
自分を酔わせているのが“正義”なのか、それとも他の何かなのか。
二度と仮面を被るまいと思うことも屡々ある。
だがあの悦楽、何者にも代え難い悦楽を思うと、それも長くは続かない。
そして“声”の導きに従って、再び仮面を手にするのだ。
もはや彼は仮面無しでは居られなくなっていた。
薄れる興奮を、標的をより巨大な悪にする事で補いながら、彼は戦い続けていた。
限界は、もうそこまで近付いていた。
どんな悪と戦っても、どんな悪を滅ぼしても、最初に感じたあの悦びは、昂ぶりは、戻っては来なかった。
感覚は麻痺し、ただ焦燥だけを感じる。
最早彼は機械的に悪を見つけ、倒す。その繰り返しだった。
標的に事欠くことは無かったが、彼の心は少しずつ衰弱していった。
乾いていた。
もう一度、あの悦びを味わいたかった。
「何が足りない? 何が必要なんだ!」
ある夜、彼は仮面に向かって問いかけた。
「どうすればあの悦びが戻ってくる?どうすればもう一度味わう事が出来る?」
“知りたいのか?”
仮面はあざ笑うように聞いた。
“知りたいのか?その方法を。”
「知りたい!」
“簡単な事だ。より強い相手と戦う事だ”
「し、しかし・・・」
“お前にはまだ、本当の敵が見えていない”
「本当の・・・敵?」
“にわかには信じられないだろうが、この世には人ならざるものが、恐るべき悪の尖兵が存在する。私はかつてそれと戦っていたのだ。”
「悪の・・・尖兵?」
“恐るべき怪物ども・・・・・、いや怪人どもだ。まあ少しずつ教えてやる。”
「怪人・・・。」
“そう、それが私の、そしてお前の真の敵だ。”
「真の敵・・・。どうすればいい?そうすればそいつらと戦える?」
“ふふふ、それにはお前自身の準備がまだ足りない。最後の準備がな”
「最後の準備?教えてくれ、何をすればいいんだ?」
“教えて欲しいのか。ふふふ、左手を見てみろ。”
仮面に言われるままに、彼は自分の左手を見た。
手には鉈が握られていた。
窓から射し込む月の光に、刃が妖しく輝いている。
“分かっているな。”
彼は軽く頷くと、鉈を強く握り直した。
“何をすればいいのか。”
躊躇いも見せずにそれを可能な限り大きく振り被ると、あらん限りの力で振り下ろした。
自分の、右腕に。
「ぎゃああああああ!!!」
身の毛もよだつ絶叫が、夜の療養所に響きわたった。
患者の失踪は、勿論それだけでも十分な“事件”だが、この一件は更におぞましい想像を関係者の間に呼び起こした。
叫び声を聞きつけて病室へとやってきた担当医と看護婦は、血の臭いとそして室内の異様な光景に悲鳴を上げ、あるいは嘔吐した。
割られた窓から吹き込む風はカーテンをなびかせ、そして血臭を辺りにまき散らしていた。
床の大きな血溜まりには、鉈と、そして切断された右腕だけが残されていたのだ。
病院はすぐさま警察に通報し、辺り一帯を隈無く捜索した。
鉈が、施設の物置から持ち出された事は直ぐに分かったが、室内で何が起こったのかは判然としなかった。
片腕の患者の行方も。
生きているのか死んでいるのかさえも。
そしてそれは恐らく、永遠に分からないだろう。
彼の眼下には、複数の怪人と、それらに囲まれている男が居た。
風見志郎。
彼はその男の名を知っていた。彼の親友だ。いや、知っているのは頭の中の“何か”か。
今となってはどちらでも良い事だが。
「変身!V3!!」
叫びとともにポーズを取ると、風見はその姿を変えた。
仮面ライダーV3。
勿論これも知っていた。正義の同志だ。
変身をきっかけに、怪人たちが一斉に襲いかかる。
戦闘能力も、そして恐らくは経験も、いかな怪人より上回るV3だったが数に任せて攻め込む怪人たちに次第に劣勢に立たされて行く。
彼はベルトのパウチからカートリッジを取り出すと、“右腕”のスロットに差し込んだ。カチっという機械的な音が、キャッチャーの掛かりを示している。
と、同時に“右腕”が変化し、それは銃の形となった。
「マシンガン・アーム。」
静かに呟くと、彼はV3の背後に迫る怪人めがけて銃弾を浴びせかけた。
突如襲った炎の雨に、怪人は成すすべもなく打ち抜かれた。
体液を飛び散らせ、頭が崩れて行く。
虚を突かれ、怪人ばかりかV3までもが動きを止め、頭上を振り仰いだ。
硝煙漂う中、闇に溶け込むように彼は立っている。
「な、何者だ」
上擦った声で怪人が叫ぶ。声で分かる。明らかに恐怖を感じているのだ。
彼の全身をぞわぞわと這い上るような興奮が捉えた。
これだ!これだこれだ!!この悦びだ!この昂ぶりだ!オレはこれを待っていたんだ!!
“オレか?オレの名はライダーマン!!”
「オレか?オレの名はライダーマン!!」
嬉しげに叫ぶ“声”と同時に高らかに名乗りを挙げてから、彼はV3を見た。
V3は微動だにせず彼を見上げている。
赤い仮面の、その緑の眼からは、如何なる表情を読みとることも、出来なかった。