メインコラム
その3

光と影を追う
〜UFO調査計画の概要〜

1:最初の地球外起原仮説

 前回述べた通り国防の担い手である軍にとって、我が物顔で領空を侵犯し、しかもその正体について片鱗さえも伺わせようとしないUFOは、次第に無視する事の出来ない存在へとなりつつあった。その正体がどのようなものであるにせよ、軍はUFOに関していくつかの事を知らなければならなくなったのだ。
 最初に一つだけはっきりっせておきたいのは、軍にとって”UFOの正体が何であるか?”という疑問は、確かに重要な調査対象ではあったが、決して優先順位のトップに来るものではない、という事である。即ち国家の安全保障上問題となりうるか否か。これこそが軍が最も重視し、知りたかった事である。勿論この疑問を確定させるための確実な手順はUFOの正体を知る事に他ならない。しかしその正体が何であれ、国防上有害なものでない事がはっきりすれば、それはもう軍にとって重要な事物ではない、という事になる。
 この事は軍によって展開された幾つかのUFO調査計画について考える上で非常に重要な示唆を与えてくれる。そして、近年までも根強く存在し、おそらくは仮説として半永久的に継承されるであろう「隠蔽工作説」について検証する際、必ずや大きな意味を有するであろう。
 
 トワイニング准将に進められた航空資材軍団の手掛けた調査の一つに円盤がナチス・ドイツの技術で開発されたものだと考える技術情報部の追跡調査があった。ソ連ブロックの何れかの国が大戦後ドイツから接収した研究情報を用いて実用化した新技術のテストを、米国領空内で行っているのではないか? こうした推察から戦中におけるドイツの技術開発研に関する情報が再検討が成された。
 だが1947年の末頃まで続けられたこの一連の調査からは何も得るものは無く、”ソ連ブロックによる新技術のテスト”という可能性が次第に薄れていった。ただこの時期の技術研究部の活動は次の二つの小さな、しかし重大な示唆を含んだデータを明らかにした。
 第一に円盤が目撃報告通りの機動をした場合、既知の素材ではその際に発生しているであろう強大な速度や応力には耐えられない、という事だった。円盤が物理的な実存の物体であれば、その素材は未知のものに求められるべきなのだ。
 そして第二にアメリカ空軍航空医学研究室によれば、人間もまたこれらの機動によって齎されるであろう衝撃に耐えられない、という事だった。円盤は無人か、あるいは未知の技術による防御策を講じた者達によって操られているとしか考えられなかった。
 煎じ詰めれば円盤が実在する何らかの物体であった場合、それは全く未知の技術を用いて建造された物体に他ならない、というのである。
 この頃から技術情報部内に、UFOの起原を地球外に求める考え方が生まれた。UFO報告が正確で、従って物体が実在するという(言うまでも無く何らの証明も成されていない)仮説を支持する者達は、その建造は現状の地球圏を超越する高度な技術文明によって行われたと結論付けた。
 軍内部においてこうした怪しげな仮説が生まれ、また支持を集めたという事は、急速に増大し始めたUFO目撃報告に対して有効な対応策を有していなかった事に起因する、一種の情報パニックと見なす事も出来るだろう。
 齎される(言うまでもなく再現性はゼロに近く、追跡性さえも限りなく小さい)UFO目撃報告に対して合理的な説明をつけようとした幾つかの、おそらくは真摯な、そしてある意味では理論的な試みの中からこうした仮説が生まれたのである。だがそれには肝心なものが欠落していた。まず成されるべきは目撃報告それそのものだけでなく、関連するどんな仔細な情報をも系統的に検証し、報告の全体像を明らかにする事だったのだ。
 こうした仮説の成立が教えてくれるのは、例えそれが問題の主側面であったとしても、断片的な情報だけを取り扱おうとする時、そこには必ず何らかの錯誤が発生する可能性が高いという事である。この事はUFO問題に限らず、現実におけるあらゆる事物において言う事が出来るだろう。
 そしてその発端が何にせよ、こうして軍内に発生した”奇説”は、後に大きな病巣となり、最終的に情報隠蔽伝説の温床の一つとなるのである。

 1947年12月30日、トワイニング准将の勧告が実を結び、航空資材軍団内に専従のUFO調査チームが発足した。
 プロジェクトサインの誕生である。

2:プロジェクト・サイン

 デイトンのライトフィールド空軍基地を所在地として発足したその計画は、しかし決して大きなものでは無かった。チームの秘密区分は”部外秘(RESTRICTED)”、これはランクとしては最低である。また与えられた優先順位は2Aだった(最高は1A)。
 だがチームを構成する人々の熱意と誠実さは顕著で、1948年1月23日に開始された調査は386日間継続され、その間UFO目撃者の元を訪ねたレポーターや民間の研究者は空軍の調査官が常に先んじているという感想を持った。
 こうしたプロジェクトの能率の良さ・取り組みの真摯さは空飛ぶ円盤(あるいはUFO)という物体が空軍にとって重要な問題であるという印象を人々に当然のように与えた。
 しかし、目撃事件の調査結果としてプロジェクト・サインのスポークスマンが発表する公式説明は、何とも素っ気無いものばかりであった。
 見間違え、勘違い、思い込み。奇異な物体・現象など存在しないという”公式説明”の数々。
 当然人々の中には疑念が生じる。軍の調査機関は一体何を掴んでいるのだろう? あの徹底した調査の後に行われた発表が余りにも素っ気無いのは何故なんだろう? ひょっとして、軍は何か隠しているのではないだろうか? もしもそうなら彼らの行う”公式説明”とは、何処まで信頼できるものなのだろう?
 プロジェクト・サインによる最初の大掛かりな調査結果も、この種の憶測を増長させる結果となった。
 空軍州兵のトーマス・F・マンテル・ジュニア大尉が1948年1月7日、ケンタッキー州フォート・ノックス近くのゴッドマン・フィールド近郊でUFOを追跡中に死亡した事件は、マスコミや過激な解釈を好む(そしてまた得意とする)UFO研究者達によってUFOの敵対行動が原因であるとされていた。
 実際の原因はマンテル大尉が飛行機に酸素が無かったにも関わらず高々度まで追跡を続けようとしたためであるというのが最も合理的な解釈である。興奮の余り判断力を失い、追跡対象の正確な高度を大きく見誤った結果、酸欠による失神で機体を制御できなくなったのだろう。残るは、マンテル大尉が目視し、追跡したものが何であったかという問題だけである。
 プロジェクト・サインは当初、顧問である天文学者のJ・アレン・ハイネック博士の助言に従って、UFOの正体は金星であるという”公式説明”を発表した。マスコミもまた民衆も当初はこの説明を受け入れ、この事件に関する奇説は雲散霧消したのだ。
 しかし、ここでも軍の悪癖が事態を複雑にしてしまう。
 やがてUFO=地球外知性体の乗物という図式を信じる人々によって、事件は細部まで掘り起こされる事になった。機密扱いを解除されたプロジェクト・サインの報告書を目にした人々にとって、マンテル事件に関するハイネック博士の次のような示唆は、どのように受け取られただろうか。

 
「ケンタッキー州メイズヴィルやアーヴィングトン、オーウェンズボロ、マディスンヴィル、テネシー州ナッシュヴィル、オハイオ州コロンバスにいたこれほどの多くの人間が当時、昼の空にそれぞれ金星を発見するような事は殆ど在り得ないように思える。従って二つ以上の物体が関係していた可能性が高いように思われる。目撃されたものの中には二つ以上の気球(か飛行機)が含まれていたかもしれないし、金星と複数の気球が同時に目撃されたのかもしれない。巧者の可能性の方がより高いように思われる。」

 この示唆は1949年12月23日になって機密を解除され公表されたものだが、どう見ても答えに窮した人間の苦しい言い訳のような印象が拭えない。さらにはこの文章が公になる8ヶ月前の4月27日にプロジェクト・サインの中から「金星説」に疑問を投げかける報告について報道機関に情報を長し、この事件自体が「未解明」に分類されているのを認めていた事から余計にそう思われてしまう。
 機密扱いされた文書の中ではその現象に当惑しながら、公式発表では金星と断定、その後肝心のプロジェクト自体が自分達の”見解”に疑問を抱いている事が明らかになり、肝心の文書内の表現は曖昧。
 こうしたちぐはぐなプロジェクトの行動は、当然の如く人々に不穏な印象を与える事になる。
 軍は何かを知りながら、それを我々の眼から隠そうとしている。そう感じてしまうのも無理ない所だろう。
 
 マンテル大尉の事件については、1950年代前半にエドワード・ルッペルト空軍大尉によって再調査された際、海軍はこの地域上空でスカイフック気球を飛ばせていたと言明した。この気球の外観はマンテル大尉及びケンタッキー州の地上目撃者の証言と一致する。
 スカイフック気球がマンテル大尉によって目視された時点で恐らく高度は60000フィート(18300m)に達していたと思われる。スカイフックは全高600フィート(183m)、最大直径100フィート(30m)もある巨大な気球で、マンテル大尉の目にはもっと小さく、近くにあるものに写ったのに違いない。大尉が見た「UFO」は多分ミネソタ州のキャンプ・リプリーから打ち上げられたものだろう。最初にゴッドマン基地で目撃したのは金星かもしれないし、オハイオ州コロンバスで目撃されていたのは間違い無く金星だった。
 図らずもハイネック博士の示唆は、的を得ていた事になる。金星の光が昼間に見えた事、そしてその時海軍が密かに気球を飛ばしていた事、その気球が並外れて大きいものであった事、これらの偶然が折り重なって”UFO”は出現したのである。
 プロジェクト・サインのチームは1948年には気球を突き止められなかった。この地域で打ち上げられた気象用気球はあたったものの成果は得られなかったとしている。だが実は当時彼らは極秘だったスカイフック計画に気付いていた。海軍と空軍の間にどのようなパワーバランスが存在するかは不明だが、それが極秘である以上簡単にいかない事は間違いないのだが、調査チームはスカイフック計画やそこで使用されている気球について調査する事も勿論出来たはずだ。だがそれをしなかった。何故か?
 チームの熱心な仕事ぶりと公式見解の間に存在するギャップ、明らかになるちぐはぐな行動、それらの原因は、地球外起原説に固執する人々とそうではない人々の確執、つまりはプロジェクト内部の分裂が原因だったのである。
 プロジェクト内部でも地球外起原説に固執する派は、目撃報告を「原因不明」に分類する事で満足していた。それほど楽観的でない慎重派は証明不可能であっても理論的で平凡な回答の方が無いよりマシだと考えていた。そして暫くは民衆もそれらに満足していた。しかし、1949年後半に公刊された包括報告は根本的には正確であるが多くの推論を含んでおり、これまでのプロジェクトの発表と内容的に矛盾していている部分もあった。空軍が何かを隠しているという疑念が再び頭を擡げ始めた。中でも事件の結論が複雑だったにも関わらず、そのための証拠や情報が乏しかったのが疑惑の温床となったのである。しかもその頃には(繰り返しになるが直接的な証拠は一切存在しないのだが)地球外起原説が人々にとって無視できない位置を占めていたのである。
 そしてある一つの事件がプロジェクト・サイン全体を地球外起原説へ大きく傾かせ、結果的にそれがプロジェクトのを終焉へと向わせることになった。

 1948年7月24日早朝に起こったイースタン航空576便の遭遇事件はプロジェクトにとって、正にUFOの正体に関して大きな示唆を与える事例であった。プロジェクト・サインの調査官、スナイダー大尉はこの物体がロケット航空機であると確信し「これが恐らく見知らぬ場所で開発された事は、合理的な仮定であるように思える」と報告書に記している。”見知らぬ場所”とはこの場合言うまでも無く”地球外”という意味だ。
 目撃者達の証言は余りにも異様な特徴を多く備えており、これが既知の自然現象に由来するものであるとは考えにくかった。しかしだからといって目撃に有ったような能力や状態を有する飛行物体を、地球上の如何なる国においても開発可能とは思われない。こうした考えがプロジェクトを支配してゆき、もう少し慎重に様々な可能性を考慮すべきではないかと言う慎重派の声は次第に掻き消されていった。ハイネック博士の「目撃されたのは珍しい流星だったに違いない」という意見に耳を貸す者もいなかったのである。
 繰り返しになるが、UFOが未知の技術文明の産物だと断ずるには目撃が100%正しくなくてはならない。しかしそうである事を証明するのは困難だ。だが既に地球外起原説に傾倒しはじめたプロジェクトにとって、それは些細な事だと考えられていたのである。
 

3:状況評価

事件後数日の内にプロジェクト・サインは、空軍首脳部に提出する報告書の作成を開始した。
 「状況評価」と題されたこの報告書はアーノルド目撃以前から現在に至る円盤の目撃例を列挙している。その全てが科学者やパイロットといった信頼できる目撃者による報告であり、何れもが「未知の物体」であるとされた。
 プロジェクト・サインの最終結論は、円盤は実在する有形物であり、宇宙からやってきたというものだった。
 報告書は1948年9月末に完成し、黒表紙で装丁され、機密の判を押され、空軍上層部へと送付された。

 「状況評価」は10月の上旬に空軍参謀総長ホイト・S・ヴァンデンバーグ大将の机に届いた。
 だが数日後、ヴァンデンバーグ将軍は、報告書の結論は提示されている証拠では証明できないとしてこれを却下した。プロジェクト・サインの面々が異星人の実存と来訪を、熱意を持って確信しているという事に、将軍は何の感銘も受けなかったのである。彼にとって報告書の結論は多くの推論の上に成り立っており、到底現実的とは呼べないものだったのだ。
 「状況評価」は機密扱いを解かれ、一部残らず焼却するように命じられた。
 この最後の命令は(将軍の、そして軍という組織の心情を考えれば)確かに理解出来ないものではないが、それ以降何十年にも渡って空軍に付き纏う大きな失策であった破棄命令は1950年代中頃に大衆の知るところとなり、当時広まりつつあった隠蔽工作説を益々勢い付かせる事になったのだ。
 また報告書自体も何部かは焼却を免れたらしくエドワード・ルッペルト大尉やデューイ・フォーネット少佐などの調査官たちも1950年代に「状況評価」を目撃したと語っている。
 だが空軍は何年間も「状況評価」の存在を認めようとはしなかった。この事が更に報告書の価値を(ある種伝説的なまでに)高める結果となった。
 「状況評価」の存在とそれを巡る破棄命令は、当局があらゆる機会を使ってUFOが地球外から飛来した確証を抹殺しようとしているというUFO信者達の主張を裏付ける、見えない、しかし重要な証拠となってしまったのである。

 プロジェクト・サイン内ではヴァンデンバーグ将軍が「状況報告」を即座に却下した事の影響が着実に現れ始めていた。数ヶ月のうちに地球外起原説に固執するメンバーがひっそりと配置換えされ、プロジェクト内は慎重派が多数を占めるようになったのだ。
 勿論残留したメンバーの中にも地球外起原説を信じているものたちはいた。だが彼らもやがて自説を曲げることになる。
 当初重要な事例であると思われたUFO事件が二つ、期待はずれの結末に終ったのがその原因だった。
 1948年10月1日夜、ノースダコタ州ファーゴ上空でアクロバット飛行をするUFOを空軍州兵のジョージ・F・ゴーマン中尉が追跡した事件は、灯火の点いた気象観測用気球の見間違いだった事が明らかになった。また1948年から49年にかけて冬にニューメキシコ州アルバカーキーのカートランド空軍基地で一連の緑色の火球は、ロスアラモスで開催された開催された軍民の科学者達によるトップレベル討論会で流星だと断定された。

 結局プロジェクト・サインは1949年2月10日を以って閉鎖された。
 その最終報告書からは、プロジェクト内部でUFOの正体を巡って激しい議論が戦わされた事をうかがわせる。平面図形としての円盤の空気力学的解析、翼の無いロケット型航空機実存の可能性などを真面目に論じる一方、自然科学を駆使して円盤が光線、電波、磁力、反重力装置などで飛行しているという”通説”を否定している。
 そして地球外起原説について、最終報告書は次のように慎重に意見を述べている。

 
高い技術を持つ種族がやって来て自らの能力を謎めいた方法で誇示し、何もしないで去って行くというのは到底信じられないことであり、各種の事例に目的が見えないという事は理解に苦しむ。考えられる動機は一つ、宇宙人が我々の防御力を探っているが交戦の意思は無いということだ。だがもしそうなら彼らはずっと以前に、我々が彼らを捉える事が出来ないという事実に満足しているに違いなく、同種の実験を執拗に繰り返しているのは意味の無い事のように思える。
 宇宙からの来訪は起こりうるものの、その可能性は極めて低いと思われる。特に1947年と1948年に報告された「飛行物体」のとった行動は、宇宙旅行に要求される能力とは相容れないように感じられる。

 こうしてプロジェクトは、その容認できない結論とともに葬り去られた。
 しかしUFO調査の必要性は未だ存在していた。
 そこで当局は方針を変換した新しいプロジェクトを発足させた。報告を機密扱いにせず公刊し、自分達に掛かっている隠蔽疑惑を退け、理論の力で国民のUFO熱を冷ます。
 この目的の元にプロジェクト・サインは「プロジェクト・グラッジ」と改称され、活動を開始したのである。

 次回以降はこのグラッジ、およびそれに続くUFO調査活動を追い、何故彼らの目的が失敗に終ったのかを見て行きたい。


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